元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

16. 授業による時間の浪費: 元不登校・東大院生から見る学校教育の諸問題②

どうも。箱の外の中の人です。

 

前回(15.)の後半では、教育における時間の決定的な重要性について触れました。今回はその点について、もうちょっと深掘り・展開していきます。

 

もくじじゃぞ

 

授業による時間の浪費

時間のもつ重要性は教育の根本的な部分に関わるにもかかわらず、場合によっては教わることに時間を浪費してしまうことがあります。

 

教育の機能の1つが学習時間の節約ないし学習の効率化であるとすれば、教育による時間の浪費はまさに教育の自己否定です。

 

しかし、学校教育における授業ではこの例にこと欠きません。なぜでしょうか。

 

教室での授業は、分かっていようと、分かっていなかろうと、そして、分かるはずがなかろうと一律に教えようとするからです。

 

つまり、知っている子にとっては時間の無駄ですし、他方で、もはや授業について行けていない子(授業内容を理解する前提知識がまだ備わっていない子)にとっても時間の無駄です。

 

以下、両方の場合について順に考えてみましょう。

 

すでに理解している内容を教わるケース

教えようとしている対象(児童生徒)がすでに知っていることに対しては、教育は成り立ちません。したがって、ハナから教育不可能な子に対して教育しようとするという、無謀なことをしているわけです。

 

※どういうことかは以下の記事をご参照ください、

hakonsoto.hatenablog.com

 

知っている内容を改めて教わることは、復習にはなりますが、そんなことは自分でできます。できないことを教育すべきです。自ら復習する能力を身につけさせる方がよっぽど教育的です。

 

もちろん授業中に説明を繰り返し聞くことで反復による知識の定着は図れます。ですが、すでにわかっている内容を、まだわかっていない子と同じ時間をかけて聞くのはハッキリ言って時間の無駄です。

 

繰り返しにより高めるべきは、処理スピードや精度の向上でしょう。なら、少なくともそれが目的であることを説明すべきですし、出来る子たちには、授業を聴かずにそれに時間を当てさせる工夫くらいあって然るべきです。

 

教育は、「知らないこと・できないこと」の「知ってること・できること」への変換(=学習)の手助けですから、少なくとも授業内容を理解してしまっている手助けのいらない子には、その単元の授業の欠席を認めて、他のことに時間を使わせてあげてもよいのではないでしょうか。

 

前にも書きましたが、出席による評価など、成績がつけやすいという教員側の都合くらいしか意味がないと思います。

 

公欠の活用の提案

出席の義務化は、子どもたちの貴重な時間を無駄にさせかねません。無駄にさせない工夫ができないなら学校は自分のキャパの限界を認めて、公欠扱いにしてあげるくらいしてくれてもいいと思いませんか?

 

小中学校の年齢の時にほとんど勉強をしていなかった私がいうのもおかしな話ですが、学習能力の高い、可能性に開かれた若い時期の時間を無駄にさせることは、本当にその子にとっても世の中にとっても損失だと思います。

 

授業カリキュラムに先行する学習内容について、自主テストのようなものを設けて、それに一定の成績を示すことを条件として、例えば、公欠扱いとして家族の休みと合わせて計画的に公式の休み(周りからズル休みと言われない休み)を認めてあげるとか、あるいは部活動の時間に当ててよいとするなどの措置を講じれば、勉学にも意欲を示す可能性があるでしょうし、自律的で計画的な学習を促すことに通じるかもしれません。

 

なぜ、会社員には有給があるのに、生徒児童には有給に当たる休みがないのでしょうか。私はまじめに、おかしいと思います。わざわざ教えてやってるんだから休まずに聴きに来いよ、という意識の表れではないかと勘ぐってしまいます。

 

まぁ、欠席が実質的にマイナスに扱われること自体良くないですが。

 

わかるはずもないのに教わるケース

これは、各単元が有機的に連関していて、ある単元がわかっていないと、他の単元の理解に差し障りがあるような教科(体系立っている教科)で特に起こりやすいケースだと思います。

 

典型的な例を出せば、算数・数学でしょう。

一次関数も十分に分からずに二次関数に進んだり、平方根の概念もよく分からずに三角関数をやらせても、生徒としてはただただ意味不明で苦痛な話を聞かされて、解けもしない問題を解いてみろと言われて、解けずに恥ずかしい思いをさせられるといったところがオチです。

 

英語も、5文型のパターンを理解してもいない子に、関係詞や複文などがふんだんに使ってある複雑な英文を訳してみろと言ったところで、機械翻訳の方がマシな訳文しか出てこないでしょう。

 

国語についても、接続詞の働きの重要性や論理構成の読み取り方をうやむやにしたまま、漫然と文章読解の練習の数をこなしても、たまたま高得点を取れることがあっても、安定しなかったり、何より、他の教科の学習の基礎(読解力)つかなかったりといったことが考えられます。

他の教科で教科書を読んで勉強しようにも、論理的な繋がりがわからず、全体の連関が把握できないことで苦労する可能性があります。

 

授業を聞いても、残念ながらあまり得るものがないだろうと思われるほどに進度に差が生まれてしまった子には、授業を聴かずに、各々が必要な復習をする時間に当ててよいとする自由度が認められるべきではないでしょうか。

 

にもかかわらず、授業を聞いていないと叱る先生や、突然名指しで解答を求めてくる先生がいるので、授業を聴かないという選択肢は採りにくい(分からないけど、とりあえず聴く姿勢を見せる、聞いたフリをする)のが実情ではないでしょうか。これは先述した、すでに授業を 内容を理解していて、聴かなくてもよい子にとっても同じです。

 

まぁ、あからさまに聞いていない態勢をとる子もいますが、聴いてても分からないのなら、聴いているフリをしているのと結果は一緒なので、無駄なことはしないという、その場におけるある意味合理的な行動をとっているとも言えなくはありません。聴く価値がある(聴けばわかる)と思ってもらえなければ、無理矢理聴かせても効果は薄いでしょう。

 

授業はどうあるべきか

ただし、前述の上下の層を除いた中間層(まだ分かってないけど、授業を聴けばある程度は理解できる層)にターゲットを絞ったとしても、授業でちゃんと教育しようと思うと、これは大変です。

 

なにせ、分からないことを理解することは時間がかかる。そして、分からない部分というのは、人によって異なるからです。

 

ということは、それぞれ違うつまづきのポイントに、それぞれ丁寧に時間をかけることが必要になりますが、限られた授業の時間内で個々人のつまずきポイントに十分に時間をかけてやることなど至難の技です。

 

ここで解決の糸口として最近注目を集めているのがAIによる学習サポートですが、さて、これが有効なのであれば、授業に出なければいけない理由、学校に通わなければいけない理由はどこに求められるのでしょうか。

 

AIの学習サポートはまだ端緒についたばかりで、技術的にも発展途上だとは思いますが、授業の動画の公開などはすでに技術的には全く問題ないものになっています。

例えば、世界史の授業を無料動画で配信してくださっている先生がいらっしゃいます。

世界史授業動画 -世界史20話プロジェクト-

 

他教科を含めたり、小学校から高校までの全期間を含めた全体としてみれば、まだまだ未整備だとは思いますが、学校に行かずとも、インターネット上の講義動画を見るだけで、全教科の教科書をカバーすることができる時代が遠からずくるでしょう。もしかしたら、今でもネット上の動画や解説ページなどを寄せ集めれば、カバーされているかもしれません。

 

明治以降、教育は学校に集約され、内容も時間も人も、ある意味で制限をかけられ、均質化されていきました。 

 

hakonsoto.hatenablog.com

 

 それが今、上記のような取り組みもあり、学習の機会はインターネットを介して、いつでもどこでも誰でも無料で利用できる環境に近づいています。

 

そうなった時に、学校の存在意義、学校に通う意味はどこに求められるでしょうか。

なくなるとは言いません。ですが、それは大きく変わらざるを得ないでしょう。

 

学校の授業が教育を標榜するのである限り、そして、教育がコミュニケーションによるものであるという大前提に立つ限り、授業では、先生の話を聞いて(あるいは生徒同士で協力してでもいいですが)主に分からないことを分かるようにするだけ、という状態が望ましいはずです。

 

講義形式の一方通行のコミュニケーションは動画でも代替できるのです。学校が提供すべきは双方向のコミュニケーションです。ここに行けば分からないことを教えてくれる、あるいは子供たちが自分だけでは学べないことを学べるという場であるべきだと思います。

 

自分が分からないところが分かっている子は、そこだけ授業を聞きにくるといった柔軟性を認めてあげてもいいのではないでしょうか。過度なパターナリズムは不要でしょう。

 

もっと言えば、「君はもう次の授業の内容は身についているから授業には来なくてもいいよ。他に必要なことに時間を使いなさい」あるいは「授業は、ちょっと先に進まなきゃいけないけど、君はその前の内容を復習しておく必要があるから、授業は聴かなくてもいいからこの動画を見ておいて欲しい。」と言える先生や学校がありふれた世の中にならないものでしょうか。

 

逆に、そうなっていない学校に行き、授業を受けることを半ば強制することにどんな意味があるのでしょうか。