元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

10. 元不登校の元東大院生が教育について根本から考えてみる

 

どうもです。

箱の中のそ…間違えた。箱の外の中の人です。

今回から何回かにわたって「教育ってそもそもなんだっけ?」的なことを少し真面目に考えてみたいと思います。

不登校を問題視する場合に、時として見えなくなっているのは学校教育の抱える問題なんじゃないかということで、教育がそもそもどういう問題を生みうるのか等々についても考えてみたいなと。

何回分の記事になるかはわかりません笑

 

 

不登校だけが問題なんでしたっけ 

不登校を問題視する場合に、時として見えなくなっているのは学校教育の抱える問題ではないか、ということを最初のエントリーに書きました。確か。。 

hakonsoto.hatenablog.com

 

どういうことかと言いますと、つまり、不登校を解決すべき問題であり、学校は行くべきところであると考えるために、学校の抱える問題がいかに大きいかが考慮されないのではないかということです。

 

あるいは、その反対かもしれません。

 

学校の抱える問題の大きさ十分に考慮されないがために、不登校を解決すべき問題とみなすのかもしれません。

 

でも、世の中には、教育ほどずっとみんなが関心を持ち、マスコミ等でも問題が取り沙汰される問題は少ないと思います。

 

にもかかわらず、不登校というものを語るとき、学校の問題は不思議と影を潜めてしまいます。これはなぜなのでしょうか。

 

そんなわけで、今回からは、不登校からの東大院という振れ幅著しい経験をした筆者が、学校教育の抱えている問題について考えを巡らせてみます。

 

ただし、「学校は生徒を抑圧する」「学校は個性を埋没させる」云々といった紋切り型の批判をするのは芸がありませんし、批判ありきの議論はフェアでなく、書く意味も読む価値も大してありません。

 

そのためここで一旦回り道をして、そもそも教育とはどういうことなのかから出発して、教育機関である学校の問題を考えてみたいと思います。

 

当たり前すぎて、改めて考えてこなかったこと、言葉にするまでもないとみなされているところから教育やその問題について考えを積み上げていくことで、頭ごなしの学校批判よりは、面白いことが言えるのではないかと思います。

 

念のため、断っておきますが、私は教育について特別研究したり、教育学や教育哲学が専攻だったことはありません!教師でもないし、文科省の人間でもありません!素人です!

 

教育と学習の違い

さて、最初に教育と学習の違いについて考えてみましょう。

 

似たような活動ですが、 まず、2つの違いは何でしょうか。

 

まず、学習というのは1人でもできるのに対して、教育は教える人と教わる人の少なくとも2人が必要だということです(当たり前だと言われればそれまでですが、当たり前のことを再確認してから進むことは大事なことです)。

 

そして、この「教える人」と「教わる人」という2人(もしくはそれ以上の人間たち)の関係を生み出すのは、「教える」という行為です。

 

この教えるという行為がなければ、「教える人」と「教わる人」、例えば、教員と生徒、教官と生徒、師匠と弟子という教育上の関係は生まれません。ここまではいいでしょう。

 

「教える」とはどういうことか

では、「教える」という行為について考えてみます。(なんでこんな細かい話をしているかというと、今後、学校がいかに教えていないかという話をしたいからです。哲学ちっくな話ですがお付き合いいただけると嬉しいです!)

 

「教える」という行為は、ほかの「話す」「見せる」といった行為と何で区別できるのでしょうか。

教えるためには何かを話したり見せたりしますが、単に話したり見せたりすることと教えることは何が違うのでしょうか。

 

1つは、何かを教えるには、その教えようとする内容を、教わる側がまだ知らないこと、あるいは、まだそれが上手くできないことが条件になります。

 

単に話したり、見せたりする場合は、相手がそれを聞いたことがあったり見たことがあっても関係ありません。

 

しかし、教えるという行為の場合は、相手がすで知っていることについて(厳密な意味で)教えることはできないし、相手がすでにできることを教えることはできません。

 

そのような場合でも、教えようとすることはできるけれど、それは常に失敗します。

 

例えば、相手がびっくりするだろうと期待して「ねぇねぇ、知ってる?貴志に子供が生まれたんだって」と、共通の友人が父親になったことを教えようとしても、相手がすでに知っていて、「あ、うん雅恵から聞いたよー」と、ほかの友人からすでに知らされたと言われれば「あぁ、私が教えたかったのに…」とがっかりするでしょう。

 

あるいは、自転車の乗り方を教えることができるのは、自転車に乗れない人に対してだけです。すでに自転車に乗れる人に対しても自転車の乗り方を教えようとすることはできますが、それはムダですよね。

 

なお、ここでは説明のわかりやすさのために、教育とは言えない、「教える」行為の例を挙げました(自転車の方は教育と言えるかもしれませんが)。「教える」という行為のうち、さらに、「教育」と呼べる行為には、さらに追加の条件を追加する必要がありますが、それは次回考えることにします。

 

「教えること」とは「教えようとすること」

さて、先ほど「教えようとしても」と言いましたが、教育に関しては、「教える」という行為は基本的には常に「教えようとする」行為だと言えます。

 

だから何なんだと言われるかも知れませんが、ここから以下のような2つの点が引き出せます。

 

1つは、教える側に常に教える意図があることです。

 

教えようと意図しない行為からも子供たちは見て学ぶことができますが、これは基本的には教育とは言い難いのではないかと思います。

 

例えば、仕草や言葉遣いなどからうかがい知れる「育ちの良さ」や「趣味のよさ」といったものは、子供が見て、聞いて、自ずと身につけた身近な大人の生活様式や振る舞いなどに強く影響を受けると思います。しかし、これら全てを子供に教育して身につけさせているかというと、そうではありませんよね。教えてもいないのに、大人の悪いクセを覚えたり身につけてしまうといったことは、容易にイメージ出来ると思います。

 

「教えること」の成功と失敗

「教えること」=「教えようとすること」という関係から引き出せるもう1つの点は、先ほど書いたように、友人の子供の誕生について知らせようとすることや自転車の乗り方について教えようとすることの例のように、何かを教えようとしても、成功することもあれば、失敗することもあるということです。

 

この、教えることの「成功」と「失敗」は何によって区別されるのでしょうか

 

先ほど、教えようとする内容を教わる側がまだ知らないこと、あるいは、まだできないことが「教える」という行為が成立する条件だと言いましたが、加えて、当然ながら、「教えようとする」行為によって、教わる側が、その教わる内容を、理解したり身につける必要があります。

 

つまり、少なくとも、教えることが成功したと言えるには、教わる側が、それまで知らなかった内容やできなかったことを、教わることで新しく理解したり身につける必要があります。これは当然教育にも当てはまります。

 

相手がすでに知っていたり、身につけている内容を教えることはできません。教えようとすることはできますが、絶対に失敗します。

 

教育には学習が要るが、学習に教育は要らない

さて、「知らなかった内容やできなかったことを、理解したり身につける」とは、つまり、学習するということです。

 

したがって、要約すると、①教えようとするという行為がない限り教育はあり得ない、かつ、②教わる側が学習をしなければ、教育は成立しないということがわかります。

 

そして、以上からもわかる通りですが、学習なくして教育はありえないし、学習は教育を成り立たせる要素であると言えます。

 

しかし、逆に、学習は教育がなくても成立します。

 

教育はコミュニケーション

以上のことを少し表現を変えて言うと、教えようとする人と、教わろうとする人との間でのコミュニケーションが必要になること、ここが教育と単なる学習(=教育によらない学習。自学とか。)の違いの1つです。

 

もっと簡潔に表現すれば、教育にはコミュニーケーションによって、学習を生じさせることが必要だ、と言ってもよいでしょう。

 

少し難しい言い方をすれば、「教える側による何かを教えようとする行為に基づくコミュニケーションを媒介として、ある特定の内容についての教わる側の学習を促すこと」が「教える」という営みであると言ってもいいかもしれません。

 

あるいは、あまりこの言い方は適当ではないかもしれませんが、教育とは、コミュケーションを通じて、コミュケーションを手段として、学習を達成することという表現の方がわかりやすいかもしれません。

 

先ほども言った通り、「教育」を「教えること」と区別する追加の条件はありますが、基本はこれです。

 

教わる側の献身の必要性

さらに、前述した②の学習の必要性は、すでに理解したりできることについて教育はできないということと同時に、教わる側の努力が求められるということも意味します。

 

そして、それは教育がコミュニケーションであることからも言えることです。教える側と教わる側がコミュニケーションをうまく取ろうとしない限り、良い成果は見込めません。

 

つまり、教える人が、説明なり、手本を見せるなりの方法によって、教わる人に何か新しいことを学習させなければならない一方で、教わる側も学習するために新しいことを理解したり、為したりできるようになるために努力して、教える側に協力することが求められるわけです。普通は、教える側が教わる側に協力するものだと考えがちだと思いますが、それは事実の一面でしかないと思います。

 

教わる側が学習しようとしなくては、教育の成功はあまり望めません。

 

教育と学習の共通点

さて、ここで視点を変えて、教育と学習の共通点を取り出してみましょう。

 

教育も(教育以外の)学習も、学ぶ者の側だけをみれば、どちらも、何か今まで知らなかったことを知ったり、出来なかったことをできるようになることだ、という点で同じ営みだと言えます。

 

だから、結果だけを見れば、一人で行う学習も、教育も、学習が生じているという面では同一なのです。

 

しょうもない言い方をすれば、教育と学習の共通点は学習です。

 

ここで、疑問が生まれます。結果が「何か今まで知らなかったことを知ったり、出来なかったことをできるようになること」で同じならば、なぜ教育が必要とされるのでしょうか。

 

つまり、全部学習じゃダメなわけは何かということになります。

 

私は小さい頃、なんで学校なんてものがあって、なんで例外なくみんなが、決まった年齢で、同じ時間に集まって、ほぼ同じような内容の教育を受けているのか等々の疑問を持っていました。

 

そういう問いについても、結局は「なぜ教育が必要とされるのか」という問いを考えてからでなければしっかりと問い、答えることはできないでしょう。  

 

次回は、なぜ教育が必要とされるのかを考えてみたいと思います。