世の中のダンサー・イン・ザ・ダーク嫌いを減らしたい…
はい。今回もタイトルに番号が付いていないので雑記です。
好きな映画とか本とかについても書いてみようかなと思って試しに記事にしてみました。
私はダンサー・イン・ザ・ダーク(Dancer in the Dark)という映画が大好きなのですが、この映画に対する世の中の当たりが強過ぎて可哀想なので弁護したいなと思って筆(スマホ)を取りました。
どうでもいいですが、筆を取るとか、筆を置くとか、ペンは剣よりも強しとか、スマホが便利になり過ぎてこういう類の熟語・慣用句が全部、スマホをナンタラカンタラ…になりそうですね笑
世の中での評価
話を戻します。ダンサー・イン・ザ・ダークという映画はビョークが主演しているミュージカル映画です。
あらすじはめんどくs…こほん…世の中にいっぱい出回ってるのでわたしは書きません。
念のためウィキペディアの概要を貼っときます。
アイスランドの人気女性歌手ビョークを主役に据え、手持ち撮影主体のカメラワークやジャンプカットの多用によるスピーディーな画面展開、不遇な主人公の空想のシーンを明るい色調のミュージカル仕立てにした新奇な構成の作品である。
高い評価を得て、2000年の第53回カンヌ国際映画祭では最高賞であるパルム・ドールを受賞し、ビョークは映画主演2作目で主演女優賞を獲得した。音楽もビョークが担当し、特にトム・ヨーク(レディオヘッド)とデュエットした主題歌『I've seen it all』はゴールデングローブ賞およびアカデミー賞の歌曲部門にノミネートされるなど高く評価された。
パルムドームとるとか映画賞での評価はめちゃめちゃ高いんですけどね…
マツコも、好きだけど自分からは観ようとしない映画の代表だって言ってます。人にはオススメしてるんですけどね笑
https://m.youtube.com/watch?v=IaFzZqUHnnY
上で紹介したブログやマツコはこの映画に好意的ですが、口コミサイトやアプリを見ると、鬱映画ならまだしも胸糞映画という表現をよく見ます。
鬱映画なのはそうでしょう。僕も最初に観たときには数日気分がどんよりとしました。それくらい表面的なストーリーは悲しいです。
また、かなりエグいシーンがあるのは事実です。でもそれは、実際エグいものを生々しく描くことに成功しているという点で評価すべきだと思います。
でも、この映画の最も素晴らしい点はそんなことではありません。それを理解すれば、ちゃんとセルマにとっての救いはあると思いますし、胸くそ悪いだけの映画ではありません。むしろとても美しい映画だと思います(皮肉のある美しさですが)。美しいのはビョークの音楽だけではないのです。
以下では私なりにこの映画の意図を説明してみたいと思います。
ーーー以下ネタバレありーーー
画面の揺れの意味
「鬱」、「胸くそ」、「救いがない」の他によく見られるコメントは、「カメラの揺れが気持ち悪い」という類いのものです。たしかに、カメラの揺れに酔ってしまう人がいて、そういう面ではやや揺れが過剰なのかもしれません。ただ、少なくとも文句を言うのは次のような意図を理解してあげた上で言うべきでしょう。
その意図とは、主人公セルマの妄想のミュージカルシーンと現実のシーンを対比させることです。妄想ミュージカルシーンはクレーンで上から撮影されるなど、手持ちカメラで撮影される現実シーンとは撮影手法の点からも区別できるようになっています。現実シーンは、我々が普段歩いている時のような揺れがあり、等身大の目線とでもいうべき日常感を伝えることを意図していると考えられます。
でも普通のミュージカル映画ってそもそもリアリティを無視してしますよね。いわば妄想的なのが普通なんです。突然歌い出すし。普通ならあたまおかしいの?って思いますよね。でも、観客はそうは思わずに、ミュージカルの世界に付き合ってあげるわけです。
その前提の上で、ミュージカル映画なのにここまでリアルを意識させようとするのは、ミュージカルの妄想性を際立たせるためでしかないですよね。つまり、「ミュージカル設定には付き合ってくれるな、セルマは頭がおかしいやつだと思え」という指示なんだと理解できます。
この映画で最も基本的なポイントは、こうした現実と妄想(ミュージカル)シーンの区別です。上述のカメラの揺れは、これに気づかせるための仕掛け、ヒントなわけです。気持ち悪いとか言われてしまっても、なんなら観客想いでやっていることなのだと思います。
目が見えないことの意味
セルマは目がほとんど見えず、稽古ですら満足に舞台に立つことも出来ない中、日常生活にあるちょっとしたリズムをきっかけに妄想の世界に入り込んでしまいます。まさに、ミュージカルの舞台に立つことを夢にまで見ているわけです(白昼夢だけど)。目が見えないから、夢を見る、妄想するわけですね。耳が聴こえないという障がいの設定ではダメなんです。さらに、クレーンの撮影のような視点の自由は、目が見えないからこそ得られるとも言えます。
念願の舞台
さて、夢にまで見た舞台に、セルマは一度限りで主役として登場しますね。死刑台という舞台に。これに気づいてない人も結構多いのではないでしょうか。ここに気がつくとこの映画はどんどん面白くなっていくと思うので、マイナス評価のコメントはここに気がついていないからだと、そう信じたい…!
先程つらつらと述べたカメラワークの話に戻りますが、ここで初めてセルマが舞台で歌うミュージカルシーンが現実のシーンとして描かれます。手持ちカメラのミュージカルシーンです。ミュージカルというにはやや儚いけれど。
それでも、舞台にはちゃんと観客もいますね。そんなに大きながハコではないけど、死刑を見守る看守や職場の身近な人達です。やっと掴んだ小さな主演舞台を友人達が見に来てくれたそんな感じですね(字面とは対照的に全くホッコリしないけど)。
その意味ではセルマの夢は実現しているんです。息子の目の手術の成功を知り、夢にまで見た舞台にも立てた。セルマの願いは叶っているんです。他の人の願いや差し伸べた手は顧みられなかったかもしれないけど、セルマの望みは叶った。でもそれは死刑台の上だった。それだけです。
そして、映画の基調をなしていた妄想と現実の差異は死を前にして統一され、破棄されます。この上なく切ないけど、美しさがあると思いませんか?
セルマの殺人もこの舞台に立たせてやるために犯させたものと理解できますよね。そのせいか殺される側のインセンティブがあまり説得的ではないようにも思います。
終わりに
他にも色々面白い点はありますが、長く書きすぎたのでこの辺でやめておきます、、裁判シーンとか最後から2番目の歌についても意味を考えると面白いです。
二度と観たくないという人も本当に多いのですが、映画上の仕掛けは、それとは反対に、「もう一回続けて観よ」となっているはずです。上記の最後から2番目の歌の他にセルマが「最後のシーンの前に劇場を出るようにしているの、終わって欲しくないから」的な台詞を言っているのも暗示的です。このコメントを読んで、この映画を “みなおして”くれる人がいたら嬉しいです。