元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

11. 元東大生(元不登校)が、教育の必要性を批判的に考える

 

やや間が空いてしまいましたが、前回の記事では、教育とはどういうものか、教育とはいかなる営みなのかをごくごく簡単ながら確認して、教育も、学習も、同じく学習することが目的ならば「なぜ教育が必要とされるのか」という問いを考えようということになりました。

 

(まだ読んでないよって方は是非、前回の記事をお読みください!)

hakonsoto.hatenablog.com

 

今日はちょっと内容が込み入っているかもしれませんが、お付き合いいただけると嬉しいです。 

 

最後まで読んでくれたらあなたは偉い!(←何様)

 

目次ざます 

 

何を教えるべきなのか、教えるまでもないことは何か

さてさてさーて、前回確認したとおり、教育とそれ以外の学習の違いとして、コミュニケーションを介するかどうか、他人(教える人)が必要かどうか、というものがありました。

 

学習だけでは足りず、教育が必要になる訳はここから導かれます。

 

教育が必要になる理由とは、当然といえば当然ですが、学ぶ側の人間が自分だけでは学ぶことができないこと、学ぶことが難しいことを学ぶために教育が必要とされるというのが1つの答えになるでしょう。

 

しかし、自分だけでは学ぶことができないこと、あるいは少なくとも自分だけでは学ぶことが難しいこととは一体どういうものか。これが非常に難しい問題になります。

 

つまり、何を教えるべきなのかという問題です。

 

また、しばしば、無視されがちだと思うのですが、「教えるべきではないことは何か」あるいは「教えるまでもないことは何か」という問題でもあります。

 

これは教育の根本的問題の1つだと思います。

 

教育/学習×必要/不要の4区分

さて、この問題について考える取っ掛かりとして、少し図式的に整理してみます。教育/学習×必要/不要の2×2=4パターンを考えてみましょう。

 

①教育も学習も不要

そもそも身につける必要がないことの領域です(かといって禁止するわけではない)。

 

②学習は不要だが教育が必要

これは、教育が学習を含む概念であるがゆえにそもそもありえません。教育が必要であれば、学習も当然必要になります。

 

以上の2つはことさら問題にはなりません。問題は以下の2つの分類です。

 

③学習は必要だが教育は不要

1人で行う学習で十分である領域です。一言で言えば、自分でできることです。

 

④学習では不十分であり教育が必要

1人で行う学習だけでは不十分であり、他人からの教育が必要になる領域です。

 

以下、このパターン分けについて解説します。

 

教育の必要/不要という区別

ここでは、1人で学習できるか否か、他人によるサポートを要するか否か、という観点から 、教育の必要/不要を区別しました。

 

実は、この区別だけでは、ほぼ無限に教育が必要になってしまいます。だって、1人で学ぶことが難しいことなんて世の中にはたくさんあるから。そんなことは負担が多すぎて実際は無理です。

 

じゃあどうやって教育が必要な内容を限定すればよいのでしょうか。

 

学習の必要/不要という区別

先ほど、①と②はことさら問題にしませんと書きましたが、まさに問題にならないということに重要なことが潜んでいます。

 

その重要なこととは、学習の必要/不要の区別をするということです。

 

これは別の論点にも関わってきます。

 

前回、単に「教えること」と「教育」との間には差があるという話をして、その差を生む条件について論じることは先送りしていました。

 

私見では、その条件こそが学習の必要性です。

 

要するに、学習が必要とされることを教えることが教育だと言えます。

 

では、学習が必要であるとはどういうことかという話になります。

  

将来への準備

まずは常識的に考えてあまり反論のなさそうなところから出発しましょう。

 

教育は、子どもたちにその後の人生を生きていくための力を付けさせてやることだと言えるでしょう(大人に対しても当てはまるんですが、イメージしやすいのは、子供かなと思って子どもと言っています)。

 

子どもたちが、そうした力をつけるのは、学習によってです*1

 

つまり、教育の役割とは、教育を受ける人に対して学習を促し、その後の人生の準備をさせてあげること、将来の出来事に対応できる知識や経験を身につけさせてあげることです。

 

なので、以上を総合すると、教育が必要になるのは、①「自分だけでは学ぶことができないこと、学ぶことが難しいこと」で、かつ②「その後生きていくための力になること」ないし「その後の人生で直面しうる出来事に対処する準備になること」についてである、と言えそうです。

 

この①「他人の必要性」(教育の必要性の基礎)と②「将来への準備」(学習の必要性の基礎)の要件から、さらに議論を展開してみましょう。

 

学習の効率化

②の将来への準備というのは、別の言い方をすると「ある時期までに、然々の能力・知識を身につけておくことが望ましい」という考えが前提になります。

 

その時期や能力・知識については様々ですが、期限までの残された時間に比して、身につけておくべき能力・知識の量が多い場合には、学習の効率化の観点から、すでにそれらを身につけている他人の助け、つまり教育が必要になると考えられます(②⇒①)。

 

例えば、受験や定期テストに勉強が間に合わなそうだから家庭教師を雇ったり、塾に通ったりするのが典型でしょう。

 

この問題に対して教育が持つ機能を、「学習の効率化」と呼ぶことにします。

 

学習の効率化は、教育の持つメリットの1つなので、教育が学習を非効率化してしまうことは原則的に避けなければならないということが導き出せるでしょう。

 

つまり、人から教わることが、自分で学ぶよりも効率が悪いなんてことは基本的にあってはならない、そんなのは意味がないということです。

 

「原則的に」というのは、もし、それを上回るメリットがある場合には、教育が学習を非効率化させることに眼をつぶってもよいと考えられるからです。

 

学習の効率化の問題

何事もそうですが、物事には裏と表があります。教育による学習の効率化は、自分で試行錯誤して、能力・知識を身につける過程を省略することにもつながります。

 

試行錯誤して学習することも非常に重要であることについて、異論を唱える方は少ないでしょう。世の中は分からないことで溢れています。どうやって答えを見つけたらいいか、そもそも答えがあるのかすらわからないことで満ち満ちています。

 

そうした状況に試行錯誤しながら対処していくことも、将来必要になる能力の1つと言えます。

 

将来必要になる能力であるということは、教育は将来の準備をさせるという目的を持つのですから、教育がその能力を培うチャンスを無闇に奪ってはならないことになります。

 

教育による学習の効率化は、試行錯誤のチャンスを奪う一面を持っていることを常に忘れてはならないのです。

 

効率化と試行錯誤のバランス

先ほど、教育が学習を非効率化してしまうことは原則的に避けなければならないと言いましたが、一方で、教育の効率化をどこまでも推し進めて良いというわけではなく、試行錯誤の能力も適切に育てていく必要があります。

 

かと言って、何も教えず生徒の試行錯誤に任せるのが最も良いというわけでもちろんありません。

 

学習効率化のメリットと試行錯誤能力の育成は、ある程度相反する(パラドキシカルな)性格を持っていると考えられます。

 

しかし、完全にそうではありません。両者を両立させることを目指す必要があります。

 

特定の内容を効率よく身につけさせるという短期的な課題と、適切に試行錯誤する思考力や忍耐力を身につけるという中長期的な課題を、限られた時間の中で両立させ、両者のバランスを取ることが教育の仕事だと言えます。

 

この問題は、期限まで残された時間(緊急性)によってもどれだけ自由に試行錯誤させてよいか、あるいは学ぶ側の思考・試行の忍耐力によってどれだけ意味のあるチャレンジができるかが変わってくるので、一概に解決はできません。

 

教わる子どものレベル、残された時間と教えるべき内容を絶えずチェックしながら、教育の必要性について、その時々で常に調整することが求められるはずです。

 

このバランスの中で、教育の必要/不要の判断、すなわち、何については教えるか、何については教えるべきではないか(=自ら考え試行錯誤させる自由を与えるか)が思案されなくてはなりません。

 

試行錯誤の効率化

先ほど、「適切に」試行錯誤する、と書きましたが、優れた教育とするためにはここがポイントだと考えます。

 

これは、試行錯誤すること、ひいては試行錯誤能力の学習を教育によって効率化させることです。一段メタな教育と言えるでしょう。

 

生徒が、堂々巡りの思考に陥って抜け出せないとき、それ以上頑張っても成果が得られないような試行錯誤を繰り返しているとき、解決の糸口を与えて、意味のある試行錯誤の方向に導いてあげること、さらには、その経験も踏まえて、どのような試行錯誤が適切であり、どのような試行錯誤が適切でないか判断できるようにしてやること、適切でない試行錯誤だとわかった時に、どうやってそこから抜け出す糸口を見つけるかといった方法を教えてやること、これらも教育の仕事であると思います。

 

これは方法の問題なので、特定の学習内容があるわけではなく、そのためカリキュラムには載っていないはずですが、学習の仕方もまた学習する必要があるのです。そして学習の仕方の学習が不十分な時はそれに対する教育も必要とされるでしょう。

 

学習の必要を決めるのは自らの将来だ!

最後になりましたがーーでもおそらく最も重要な点としてーー将来の準備の必要性から学習の必要性が導かれるということは、将来どうしたいかを決める自分こそが、学習が必要か否かを決めるのだということです。学校のカリキュラムが絶対なのではなく。

 

将来の目標が定まれば、それに応じた学習の必要性が生まれます。

 

勉強に限定して言えば、なぜ勉強するのかわからないという子は、将来やりたいことがよくわかっていないからという可能性が高いです。あるいは、やりたいことがぼんやりとしていて、それを具体的に実現させるための道筋が見えていないのかも知れません。

 

将来自分がこうありたいと望む姿と、そこまでに至る道筋を描ければ、いつまでに何を身につけておくべきかが分かり、それによって学習の必要がわかります。その上で、努力し、自分の努力では足りない部分があれば、教育の必要性が実感できます。

 

第5回の記事で、私が不登校中に勉強を再開したのも、今考えればそのストーリーに沿っています。きっかけとして、憧れをを持つことが大事だと言ったのは、このストーリーを押し進めるエネルギーになるからです。

hakonsoto.hatenablog.com

 

 今日はとりあえずこれにて失礼します。

 

教育に関する考察記事はまだ続くよ(あと少し)。

 

*1:念のためですが、ここでの学習は、いわゆるknowing that(命題知)に限らず、knowing how(方法知、暗黙知)も含んで考えて良いです。