元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

12. 教育の2つの役割について(不登校体験を踏まえて思うところ)

どうも。箱の外の中の人です。

長文注意です。細切れにすれば3回分くらいの量になっちゃいました…果たして読まれるのか笑

 

も く じ

 

はじめに

 前々回、前回と、「教育」ってそもそもどういうものなんだっけ?、みんな教育が大事っていうけど、教育ってなんで必要なの?、どういうことに教育って必要になるの?うんぬん…といったことを考えてきました。

 

  

今日は、教育の2つの大きな役割について整理しておこうと思います。その役割というのは、「社会化(socialization)」と「個性を伸ばすこと(個性化 individualization)」です。

 

教育の役割なんて細かく見ればいくらでもあると思いますが、今回なぜこの2つを取り上げるかというと、色々と教育の論争が、この2つの間で行われているように思うからというのが1つです。

 

もう1つは、不登校になったときの心配として、社会性が身につかなかったらどうしようとか、時に不登校のメリットとして言われる、個性の発揮といったことに関係するからです。

 

前回の記事では、教育が必要になるのは、次のようなことに対してであると書きました。

①「自分だけでは学ぶことができないこと、学ぶことが難しいこと」で、かつ②「その後生きていくための力になること」ないし「その後の人生で直面しうる出来事に対処する準備になること

 

基本的には、今回扱う「社会化」と「個性化」もここから導かれるものだと言えると思います。

 

教育による子どもの社会化について

よく言われるとおり、人間というのは、人と人の間に、生まれ落ちて、生きていくものです。ゆえに、人間は「社会的な存在」と言われます。

 

人は、無人島にでも暮らさない限り、ほぼ例外なく社会の中で生きていくしかありません。

 

したがって、子どもたちが生まれ落ちたその社会で生きていくために、身につけたり、対処しなければならないことについては、教育が必要になります。

 

さて、これは上記の②に当たるわけですが、当然その中では、自分だけでは(というか子どもを放っておくだけでは)身につかず、他人からの指導・手助けが必要になるものがたくさんあります(①)。

 

例えば、人様から汚いと思われるから服の袖で鼻水を拭ってはいけません的なことを、子どもに注意しているお母さんやお父さんがいますよね。

 

これは、

(A)その行為によって他人に不快感を与えたり、他人から避けられたりする可能性があるので、それはしないようにしなければならない。(②に該当)

かつ、

(B)子どもが自分では(A)になかなか気がつかないので周りが指導をする必要がある。(①に該当)

というかたちで教育が必要とされるものと理解することができます。

 

汚い例ですみません。

 

ただし、鼻水を袖で拭うことは、文化(より狭くいえばコミュニティ)が違えば、周りからなんとも思われないので、特に指導・注意されることもないようです。

 

このように大人(まあ、大人だけではないのですが、というか大人ってなんだって話にもなるのですが、めんどくさいわかりやすいので大人と総称しておきます)がどう思っているか、どう行動するかを基準として(例えば、袖で鼻水拭っちゃダメなんだなって)、子どもが大人の考えや行動に親しんでいく過程を「社会化」といいます。

 

これをもう少し一般化すると、習慣・風習、規則とかを学んで、それに対して順応していくこととも言えます。

 

お父さんやお母さんが子どもに、「ああしちゃダメ」、「こうしちゃダメ」っていうのは、こういうものに適応するように促してやっているものですよね(基本的には)。

 

こういう場合にはこう振る舞うといった、子どもが生きるその社会から期待されるマナー(例えば、あいさつやお葬式での振る舞い)など、いわば文化を身につけることが、社会で生きていく上である程度必要になります。

 

「社会化」というのは、このように、社会の約束事を身につけること、言葉や習慣など文化的な決まりやルールを受け入れて、それに従って行動できるようになることです。

 

つまり、「正しい」とされている知識や「適切」とされている振舞いとされるものを身につけて、他の人たちと共に生きていくことができるようになるということです。

 

学校の規則(校則)も、学校によって違うけど、そこにいる限りは、それに従うことが正しいのだとされるものです(髪は染めてはならない、スカートは膝丈何センチ以上に短くしてはダメだとか)。

 

ただし、教育の役割を社会化だというと、創造性や個性のない子供に育てることになるという批判があります。また、子どもをルールや慣習に縛り付けて、抑圧することになる云々という批判も、特に学校教育に対してよく浴びせられるものだと思います。

 

かと言って、何かうまい解決が図られているかというと、そうでもなく、現実はあまり変わっていないのが正直なところでしょう。

 

「社会性を身につけさせろ!」という一方で「個性が大事だ!」という、教育を巡るバトルは、結局、アレかコレかという争いをしている限り、生産的な議論は得られないのだと思います。

 

初等・中等教育と高等教育の役割分担説

アメリカの哲学者のリチャード・ローティは「社会化としての教育と個性化としての教育」(原題 ‘Education as Socialization and as Individualization’)という論文でこの2つの役割を整理しているので、参考にしながらアレコレ考えて行きたいと思います。(別に私はこの人の研究をしていたわけではないのですが。)

 

 ざっくり言うと、彼は、社会化というのは初等教育中等教育の機能であり、個性化の機能は高等教育(職業教育を除く)(=大学)が担うべきだと言っています。

 

これは、教育はどちらを担うべきかというアレかコレかの議論ではなくて、どっちも教育の役割なんだとした上で、それぞれの教育を施す時期と教育機関を分けて考えることで問題を解決しようというものと理解できます。

 

これを勝手に初等・中等教育と高等教育の役割分担説と呼ぶことにします。

 

多くの人々が考えているのとは違って、彼は初等教育中等教育から高等教育への連続性はないんだ、両者は違うものなんだといったことを書いています(ただし、18歳とか19歳くらいの子が、十分に社会化されていなくて、知っているべきことも知らないで大学に入ってくるので、補修的なことも実際には行われているけれども、ということも書いてあります)。

 

まず彼が中等教育までをどう見ているのか確認しましょう。ローティは「18歳ないし19歳までの教育はほぼ社会化に関する問題だ」として、中等教育までの教育について次のように言っています。

 

初等教育中等教育が扱う事柄は、これからも常に、年少の者に対して、彼らより年長の者が正しいと信じているものに親しませることである。それが〔実際に〕正しかろうとそうでなかろうとだ。下位レベルの教育の機能は、決して、何が正しいかについての優勢なコンセンサスに対して異議を申し立てることではないし、これからもそうである。社会化は、個性化に先立たなければいけないし、自由のための教育はいくらかの制約が課される前に始めることはできない。(私訳)

拙い私訳なので、原文も置いておきますね。。

Primary and secondary education will always be a matter of  familiarizing the young with what their elders take to be true, whether it is true or not. It is not, and never will be , the  function of lower-level education to challenge the prevailing consensus about what is true. Socialization has to come before individualization, and education for freedom cannot begin before some constraints have been posed.

 

 つまり、(後から見たり、他の社会の人たちから見たら間違ってるようなことでも)子どもの周りの大人たちが信じていること、正しいと思っていることに対して子どもたちを馴染ませて、身につけさせて行くのが社会化ということであって、18歳くらいまでの教育は、それに取り組むのが仕事だってことです。

 

また、社会化というある種の制約が課されて初めて、その子が望むことに役立つような自由のための教育も施すことができるのだということもここで言われていることだと思います。

 

その自由のための教育というのが高等教育に当たるのだと考えられますが、ローティは高等教育について以下のように語っています。

 

職業教育以外の高等教育のポイントは、学生を手助けして、彼らは自らを再形成することができるのだと気づかせてやることにある。それはどういうことかと言うと、学生に対して、自分たちに過去に押し付けられた自己イメージは、つまり彼らを有能な市民たらしめている自己イメージは、新しい自己イメージに作り変えることができるのだと気づかせてやることである。その新しい自己イメージというのは、〔外から押し付けられるだけではなく〕彼ら自身が創造に一役買ってきたものなのである。(私訳)

The point of non-vocatonal higher education is … to help students realize that they can reshape themselves ー that they can rework the self-image foisted on them by their past, the self-imafe that makes them competent citizens, into a new self-image, one that they themselves have helped to create.  

 

これが個性化に当たる話です。で、よき市民だと思ってた(うまく社会化された)自己像に疑問を抱くようになります。そうすると、

 

少しの手助けがあれば、生徒たちは自分たちの身の回りのとるに足らないこと、卑劣なことそして不自由なこと全てに気がつき始める。運が良ければ、彼らの内で最も優秀な者は、伝統的で型にはまった知識を変えることに成功するだろう。その結果、彼らの次の世代は彼らが社会化されたのとはいくらか違ったかたちで社会化されることになるのだ。

With a bit of help, the students will start noticing everything that is paltry and mean and unfree in their surroundings. With luck, the best of them will succeed in altering the conventional wisdom, so that the next generation is socialized in a somewhat difterent way than they themselves were socialized. 

 

とまぁ、こんな感じで、中等教育までの社会化→高等教育による自己省察と伝統の変革→変革された社会における中等教育まででの次の世代の社会化…と続いていくんだよというストーリーになっています。

 

役割分担説についての個人的見解

わたしは、ローティという人の考え方は、この教育に関する論考に限らず、飄々としていて、軽快感があって好きなのですが、上で紹介した考え方には一部反対したいところがあります。

 

まず、年齢で一律に分けるのはよろしくないと思います。

 

ローティは18から19歳頃までの教育はほぼ社会化の問題なんだと言っていますが、それより年少の子どもであっても、色々と世の中にはに疑問を持ちますし、むしろそういう年端もいかない子どもたちの方が世の中の理不尽さとか違和感みたいなものに気がつくこともあるだろうと思います。

 

私も以前ブログで書いた通り、幼稚園のお昼寝タイムから周りに違和感を感じてた人間なので、、、

 

また、飲み込みの早い子もいれば、そうでない子もいます。大学でも社会化の補修的な授業があるというのは今の日本社会でもそうだと思いますが、逆に、初等・中等教育では飛び級させたりもないですし、世の中への疑問・違和感を感じてもそれに応えてくれる場がなかなかないのが実情ではないでしょうか。こういう場も設けるべきだと思います。

 

個性化について 〜個性よりも多様性を〜

最後に「個性」という最近もてはやされている言葉について思うところを書いておきます。

 

世の中は、人々に対して、世の中に適応することを求めると同時に、世の中を良い方向に変えていくことをも求めてきます。つまり、世の中の現状を受け入れると同時に、それを否定して、より良いものにしたり、これまでにない価値を生み出したり、見出したりすることを期待してきます。

 

そういうことができる「個性」を持った人を世の中は求めています。

 

でも、ローティの言う通り、まずは一定程度社会化する必要はあります。社会で生きていく上では。

 

したがって、教育において大切なことは、どうしたら社会化のプロセスにおいて、画一化に陥らせないように個性を発展させ、世の中を改善していくための可能性を拓くことができるかということになります。

 

個性が求められるこの時代において、教育の社会化という機能は、一見自己矛盾的な困難を抱えてしまっているとも思えます。

 

だからこそ、教育のあり方を巡って論争が戦わされているのでしょう。

 

その中でも近年は「個性を大切にすべきである。」「学校制度は個性をなくしてしまう。」という主張は多いと思います。皆さんも似たような話は耳にしたことがあるでしょう。

 

ただし、個性の絶対視はイケてないと思います。というのは、全員の個性をそのまま不可侵のものとして認めたら、教育なんて不要になってしまうからです。

 

教育というのは、そもそも、個人に対してなんらかの変化を求めたり、変化を起こすものです。典型的には、ある知識を教えることによって、それを知らなかった時のその人とは違う状態にするわけですから。

 

なんらかの修正を促すべき欠点があったとしても、考え方によってはそれをも個性とみなせてしまうのですから、個性を絶対視したら教育の出る幕はなくなります。

 

これは極端な単純化であるとしても、大切なことは、個性の礼賛は、そもそも教育の意義を崩しかねない危険性があるということです。

 

教育すべき人が個性という盾に守られてしまって、教育できなくなってしまいかねないのです。「それもまた個性。そのままでいいのだ。」と。

 

こうした理由から、個性という言葉をキーワード的に使うことは避けるべきだと思っています。

 

むしろ、多様性の方が良いでしょう。個性の重視を唱える方は、学校や制度によるパーソナリティの画一化を問題視しているのだと思いますので、多様性という言葉でもその意図は叶えられるでしょう。

 

個性に代えて多様性という言葉を使うメリットは、個性というと、ある1人の人だけに視点が集中してしまう嫌いがあるのに対して、多様性という言葉は、その他の人々との比較が視野に入ってきます。社会的な観点が含まれると言ってもいいでしょう。

 

よく言う自分探しも、本当は多様な人々に出会うことで、自分らしさを知るくらいの意味ですから。

 

ただし、多様性確保の名の下に、個々人に対して、「然々の能力を持つ人が足りていないから、君はこういう人間になれ」という強制が働いてはならないということは付け加えねばなりませんが、一方で自らの戦略としてそういう方針をとること、つまり世の中のニーズを察知してどういう人間を目指すかを決めることもできるでしょう。

 

おわりに

とは言え、生徒の多様性を認めるには学校の柔軟性が必要です。現状、学校はそれとは対照的に一般性(みんな一緒に同じことを学ぶ)に重きが置かれていると言わざるを得ません。

 

ただし、この一般性も必ずしも非難されるべきことではなく、国民に広く一定の水準の教育を施すには、適しています。

 

個性礼賛は、「学校は個性を抑圧する」的な学校制度批判を伴うことが多いと思いますが、その際、学校制度が今果たしているポジディブな機能・効果・役割については無視しがちであることも注意が必要です。

 

問題はあくまで、そのための学校の仕組みに馴染めない子どもたちやもっとほかの教育に適した子どもたちがいるということです。

 

多様性が重要とは言っても、社会で生きる以上は一定の社会化は必須であって、その上で人々の多様性を認め、増進し、多様な人々の連携を深めることが重要であると思います。

 

そして、その「多様性の中の連携」の基礎を築くのは教育による社会化であると思いますし、現状においてその役割の中心を担っている、あるいは担いうるとすれば学校であることに異論はあまりないでしょう。

 

今回色々書いてきた2つの役割が(ローティが提言するのとは異なり)初等教育中等教育でも同時に求められていることが、教育のあり方をめぐる議論の根っこにある1つの問題になっているのではないかと思います。

 

さて、長々と色々書いてきましたが、これまで数回に渡って書いてきた教育についての考え方を念頭に置きながら、次は学校に関して考えていきたいと思います。