13. 学校教育どうしてこうなった(明治からの振り返り)
どうも。箱の外の中の人です。略して箱人です(読み方は「はこんちゅ」でも可)。
箱男ではありません。ダンボールには住んでません。ちゃんと住まいがあります(わかりにくいボケですみません)。
さて、第11回の記事に、教育が必要になるのは、①「自分だけでは学ぶことができないこと、学ぶことが難しいこと」で、かつ②「その後の人生で直面しうる出来事に対処する準備になること」についてであると書きました。
また、①を前提として、②を敷衍(ふえん)して「子供たちが生まれ落ちたその社会で生きていくために、身につけたり、対処しなければならないことについては、教育が必要」であることや、教育の代表的な役割としての社会化と個性化の抱える問題などについて述べてきました。
そして、今回からはこうした必要な教育を提供することを期待される存在である学校(教育機関)について考えて行きたいと思います。
目次やで
社会は変わっているのに教育は驚くほど変わっていない
さて、学校の教室と言われて、あなたが思い浮かべるものどのような光景でしょうか。
きっと、日本全国、いや世界各国で、そう大きな違いはありません。
黒板(ホワイトボードかもしれませんが)があって、その前に教壇があり、それが見えるように、一方を向いて机と椅子が並べられている。そんな光景ではないでしょうか。
机は動かせるとかそういうツッコミは求めてません笑
あくまで基本形です。
綺麗だったり汚かったり、机や椅子の大きさや質は違ったとしても、新しい教室でも、古い教室でも、ほとんどの場合、上記のような特徴を備えていることに違いはないでしょう。
「古い教室」と言いましたが、いつ頃からこんなスタイルでやっているのでしょうか。
ちなみに、私の高校時の世界史の先生(40代半ばくらい?)が、「おれが子供の頃から、ずっと黒板とチョークだ。いい加減ホワイトボードにならんのか。チョークの粉が服に付いて仕方がない。」とぼやいていました。
それから10年以上経っているので、少なくとも40年くらいは「チョークの粉問題」には抜本的な改善が見られなかった訳ですね。
でも、もっと昔から変わっていないようです。
プラグマティストで今でも高く評価されている教育哲学者であるジョン・デューイは100年以上前の著作『学校と社会』(初版1899年、改訂版1915)においてこんなことを言っています。
生物学者が一片か二片の骨を取ってきて完全な動物を再構成することができると同じように、もし我々が、醜い机が幾列にも幾何学的に整然と並べられて、できるだけ活動する余地を残さないように密集させられており、その机たるやほとんみな同じ大きさで、その上に本・鉛筆・紙などを載せるのにちょうど足りるくらいの大きさであり、その他にはテーブルが一個、椅子が二、三脚、何の飾りもない裸の壁あるいはせいぜい二、三枚の絵のかかっている壁、といったありふれた教室の風景を心の中に思い浮かべてみるならば、われわれはこのような場所で行われる唯一の教育的活動を再構成することができるであろう。それはすべて「ものを聞くために」作られたものであるーーーというのは単に書物から学科を学ぶということは、聴講の一種にほなならないからである。それは一つの心が他の心に従属、依存していることを示すものである。ものを聴くと言う態度は、比較的言えば、受動的の態度であり、ものを吸収する態度である。(宮原誠一訳、岩波文庫)
教室の造りという意味では、100年以上前の学校でもほぼ同じような風景が当たり前のものとして広がっていたようです。
デューイもこういう典型的な教室は「ものを聞くために」作られたものであると言っているように、教室の造りが一緒であれば、そこで行われる教育のスタイルも自ずから似たものになるでしょう。つまり、教師が教壇に立ち、話し、大勢の児童生徒がそれを見て、聞くというスタイルです。
教育は社会で子どもたちが生きていくための準備をさせることであると先ほど言及しました。
しかし、教室造りが変わっていないということは、百数十年の間に社会は目まぐるしく変化したのにもかかわらず、学校はほとんど変わっていないこと、そして学校での教育の仕方も根本的には変わっていないということを象徴するように思えないでしょうか。
もちろんマイナーチェンジはありますが、基本はあまり変わっていないのではないでしょうか。
以下では、極めてざっくりとではありますが、こうした学校教育のスタイルが生まれる過程を確認するために、日本の近代学校の歴史を振り返ってみましょう。
日本における近代教育制度の始まり
第10回の記事において「なんで学校なんてものがあって、なんで例外なくみんなが、決まった年齢で、同じ時間に集まって、ほぼ同じような内容の教育を受けているのか」という疑問を書きました。
これらへの答えも歴史を見ると少しわかってきます。
日本において現在のような近代教育が始まったのは、明治5年(1872年)8月の「学制」(全国規模の近代教育法令)の公布に遡ります。
地方にバラバラと政治権力が存在していたそれまでの幕藩体制(封建制度)を廃止して、統一的な国家体制を敷くべく廃藩置県が行われたのが明治4年(1871年)の7月ですから、そこからわずか1年と1ヶ月で全国規模の近代教育の法令が公布されたことになります。
ややめんどくさい物言いになってしまいましたが、幕藩体制というのは、江戸幕府が頂点にいる1つの国の中に、それより小さくて弱い国がいっぱいあるようなものです。
なので、国が違えば文化が異なるように、政治だけではなくて、教育や文化の面でも各地域によって独自のものがあったり、大きく違っていて、地域ごとの格差もとても大きかったと言われています。
これを踏まえると、学制のポイントは全国規模の教育を目指したというところにあります。日本全国の子供たちがみんな学校で教育を受けることになることの基礎がここにあります。
この「学制」というのは、欧米からの制度から学び、取り入れようとした「輸入品」ですが、学制の目的や学校を設置する理由などを記した「学制序文」を見ると日本が目指そうとした近代教育の特徴がわかります。以下に引用します。
人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スルニヨルナリ而テ其身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スルハ學ニアラサレハ能ハス是レ學校ノ設アル所以ニシテ………
うん。これでは読む気が起きませんね笑
現代語訳を載せます笑
人々が自分自身で立身し、その財産を管理し、その事業を盛んにして、そうすることでその一生を全うすることができるのはなぜかというと、それはほかでもない、身を修め(=自分の行いや心を整え正し)、知識を広め、才能や技芸を伸ばすことによるのである。そうして、その、身を修め、知識を開き、才能や技芸を伸ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由であって、…およそ人の営むもので学問が関係しないものはない。…人たるものは、誰が学問をしないでよいということがあろうか(=人間誰しもが皆、学ばなければならないのである)。…学問は武士階級以上の人に関することと考えて、農業・工業・商業に従事する人、及び女性や子どもに至っては、学問を自分たちとは関係のないものとし、学問がどういうものであるかをわきまえていない。学問を学ぶためには、当然その趣旨を誤ってはならない。…このために、このたび文部省で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので、今から以後、一般の人民(華族・士族・卒族・農民・職人・商人及び女性や子ども)は、必ず村に学ばない家が一軒もなく、家には学ばない人が一人もいないようにしようとするのである。人の父兄である者は、よくこの趣旨を十分認識し、その子弟を慈しみ育てる情を厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならないのである。(太字は引用者。一部改変)
学事奨励ニ関スル被仰出書(学制序文) ※原文、現代仮名遣い、現代語訳とも載っています。
これでもやや長いので、ポイントをざっくりとまとめると以下のようになりそうです。
- 役に立つ勉強をして、自立してビジネスで成功しろ。
- 生まれや身分、性別にかかわらず人っ子一人残らず勉強させろ。
- だから子どもを学校に行かせろ。
ざっくりし過ぎてついニュアンスが乱暴になりましたが、こんな感じですね。
これらをさらに要約して、漢字ばっかりにすると、次のようになるでしょう。
- 実利主義(立身出世)
- 平等主義(国民皆学)
- 義務教育
実利主義というのは、役に立つことを勉強しなさいってことです。
むかーしの本を意味もよくわからず丸暗記するとか、役に立たない空理空論を語ってこんなこと知ってるおれ偉いでしょ、みたいなやつらはダメだっていうわけです。
平等主義っていうのは、身分に関わりなく、みんな教育を受けなさい、受けさせなさいってことです。
昔は士農工商(これを四民という)っていう、生まれによる身分の差があったんですが、明治維新のときに、廃止されました。
身分社会(階層社会)が終わったことで、皆が平等に教育を受けることになったわけです。
それから、女性も学問を勉強しなさいっていうことですね。
義務教育は特に説明しなくていいですよね。みんな子供には教育受けさせなきゃダメだよってことです(超ざっくり)。
義務教育についての細かい話は、またそのうち取り上げたいと思います。
日本最古の小学校と寺子屋のバラバラ感
さて、これを実行するためには、当然ながら教育の場所が必要になります。
この後政府は各地に学校をボコボコ建てていくわけですが、施行の2年後の明治8年には全国に、ほぼ今日と同数の2万4,000校以上の小学校ができたといいます。
これですら当初の目標の半分以下だということらしいので、いきなりどんだけ作ろうとしてたんだよって感じですよね笑
ちなみに、日本最古の小学校「開智学校」は長野県の松本市に重要文化財として現在も残されています。以下のサイトにたくさん写真が載っています。
こんな小学校ならちょっと通ってみたくありませんか?笑
ただ、当時の小学校はみんなこんなに立派な校舎だったのかといえばもちろんそうではなく、校舎を新築したところは少ないようです。
東京学芸大の先生がこんなことを語っています。
明治8年の時点での統計がございます。これを見ますと明治以降校舎を新築した学校は18%、どこかに間借りをしていた学校が82%もございます。学校に行った子どものほとんどは、寺院の一室であるとか民家、これは馬小屋の2階だとか、あまり民家に空いている部屋はありませんで、そういうところを間借りして、ほぼ寺子屋式の授業を小学校という名前でやっていたのが実態であろうと考えられています。
ここで出てくる寺子屋式の授業というのはどんなものかというと、
- 机の向きはバラバラ
- 勉強にくる子どもの年齢もバラバラ
- なので、入学、卒業とも年齢バラバラ
- 授業時間もバラバラ
- 授業内容もバラバラ
- 当然、教科書もバラバラ(7,000種とも言われる)
- ほぼ毎日やってるけど、用事があれば休んでいいので出席もバラバラ
もはやバラバラ過ぎて崩壊する音が聞こえそうというか、学級崩壊が可愛く見えてきますね笑
まぁ、学級なんてものがそもそもなく、個別指導だったようです。
しかし、日本最古の開智学校を見る限り、教室の作りなどは、今とそう変わりません。机が綺麗に並んで、前に立った先生が大勢に話して聞かせるタイプの授業のための教室です。
開智学校は、それ以降の小学校の(あまりに理想的な)モデルの意味もあるでしょうから、近代教育の教室というのは最初から現在のようなスタイルだった、少なくともそれを目指していたと言ってしまってもよいでしょう。
次回は、学制序盤の理想と寺子屋のバラバラ感の間から、現在の学校教育制度の原型が生まれてくる過程をみていきます。