元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

14. 学校教育が均質化した歴史的背景について(不登校の今を考えるために)

 

どうも箱人📦です。

 

前回は学校という近代教育のハード面が百数十年前の原型からほどんど変わっていないこと、そしてそれは今の学校教育が根本的にはその時代から変わっていないという事態を象徴しているのではないかという話をしました(ちなみに、このブログタイトルにある「箱の外」の「箱」というのは学校を指しています)。

 

もくじですよ

 

はじめに

さて、今回は学校の教育が均質になっていく様子を概観します。

 

つまり、同じような内容の教育を、同じような年齢の子供たちが、みんな一緒に受けるという今のような学校の教育スタイルがどうやってできたのかを見てみます。

 

 

今の教育機関がその意味での「教育」を行うことにいかに問題含みであるかについて、後々書いていきたいと思いますが、それを考える下地として上記のような学校教育のスタイルがどのようにしてできてきたのかを確認しておきます(このブログに必要な最低限度でですが)。

 

 

学校なんて行かないのが当たり前?

さて、前回見たように、理想・目的を掲げる法制度も、それを実現するための場所である学校もそれなりに準備できたといっても、欧米から輸入された近代教育がスムーズに日本全国に根付いたかというと、やはり困難は多かったようです。

 

たとえば出席率について、以下の文部科学省の記述をご覧ください。

 

「(明治)八年度の児童の就学状態は、名目で男女平均三五%、出席状況を勘案した実質では二六%程度に過ぎなかった。」 

一 近代教育制度の創始:文部科学省

 

制度の公布3年後で、出席率は実質的に約4分の1に過ぎなかったようです。つまり、残りの4分の3は学校には行っていなかった訳です。

 

学校になんて行っても役に立たないから、行かせないという親も多かったようです。この当時は小さな子供も、働き手としての役割を期待されていましたから、学校になんて行ってないで手伝いをしろという親も多かったんですね。

 

そんな状況では、今とは逆に、学校に通う子どもの方がマイノリティーだったとすら言えそうです。

 

厳密にはこの4分の3の子どもを「不登校」と呼ぶことはできませんが、初回の記事に書いたように、現在は中学生全体の3.25%、小学生全体の全体の0.54%が不登校で、これが過去最大だと言ってニュースになるくらいですから、当時と今では学校に通うことを巡る「当たり前」が全く違うと言えます。

 

学校は「行くのが当たり前」に

しかし、この後、就学率は明治35年に男女平均で初めて90%を上回り、明治の終わり頃までには就学率は100%近くに達しました。日本では制度の輸入元である欧米よりも急速に学校教育が一般に普及したと言われています。

 

ここで学校に通うことが「当たり前」になり、学校に行かない「不登校」が問題視されるための1つの前提条件が成立したのではないかと言えます。

 

つまり、みんな学校に行ってるんだから、行かないのはおかしいよね、といった状況が生まれてきます。

 

学制の公布の後、学校制度が今のかたちに近づいていく過程を簡単にまとめてみましょう。

 

前に寺子屋の授業スタイルを見たときにバラバラだったものが、だんだんと統一、画一化そして均質化されていくのがわかります。

 

  • 明治8年、満6歳から14歳の8年間を学齢とする
  • 明治19年、学校種別にそれぞれの学校令を制定。帝国大学令師範学校令、小学校令、中学校令、及び諸学校通則など5種の学校令を公布(=その後数十年にわたって整備拡充された学校制度の基礎が確立)。
  • 明治33年、小学校令が全面改正され、四年制で単一な内容からなり、無償制を原則とする義務教育制度が確立。
  • 明治36年、小学校令を一部改正し、教科書の文部省による編纂、いわゆる国定教科書制度を37年度以後実施することに。

二 近代教育制度の確立と整備:文部科学省

 

小難しい言葉ばかりなので簡単にまとめ直してみましょう。

 

①学校に通う年齢が決まる

6歳から14歳は学校に通うということが決まりました。この期間の長さはだんだんと伸びていくわけですが、6歳からみんな学校に通うことになったのです。

 

②学校種別の基礎

現在の学校制度は、小学校、中学校、高校…と学校はいくつかの種類・段階に分かれていますが、その基礎は明治時代にできました。
同じような年齢の子どもたちが集まるようになった背景です。
 

③学習内容の標準化

前回書いたとおり、それまでの寺子屋教育では、みんなが使う教科書もバラバラでした。しかし、明治の後半になると、教科書を国が指定するようになりました。

 

同じような内容の勉強をするようになった背景です。

 

まとめ

以上のことをやや単純化を承知で言えば、全国で、同じ年代の子たちに、同じ内容を教え、それがさらに世代を超えて継続するということです。

 

つまり、教育の均質化が、①社会的広がり、②教育を受ける年齢、③教育の内容、④世代を超えた時間のそれぞれの面で進んでいきました。

 

③については、例えば、寺子屋教育の時代には、現在にも残っているだけで約7,000種の教科書があったそうです。

 

現在はと言えば、小学校の全種目を合わせても56種類しかありません。しかも学習指導要領に沿った内容であることが求められますから、内容的にはそこまで大差がないはないはずです。

小学校用教科書目録(平成31年度使用)

 

現存する寺子屋の教科書(往来というそうです)の数と、1年度の教科書の種類の数を単純に比較はできませんが、イメージの助けくらいにはなりますよね。

 

今日は短めですがここまで。

 

次回以降は、明治以降に進んだ学校教育の均質化から派生したと考えられる、今にも通じる学校教育の問題について考えていきたいと思います。

 

それをご覧いただくまえに、教育とは何かについて書いた記事をまだお読みでない方はぜひお目通しください!笑

hakonsoto.hatenablog.com