元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

15. “教育”の過剰: 元不登校・東大院生から見る学校教育の諸問題①

ご無沙汰しております。箱の中の外の人です。

 

年度末・年度始めの繁忙期から間髪を入れず、4月半ばには仕事の担当が変わり、新しい分野の勉強や忙しさと疲れを言い訳にブログの更新が滞っていました。。

久しぶりに有給が取れたので更新します笑

 

目次ざんすよ

 

はじめに

前回の更新では「明治以降に進んだ学校教育の均質化から派生したと考えられる、今にも通じる学校教育の問題について」書きますと言ってしまっていたので、今回からはそのお話です。

 

hakonsoto.hatenablog.com

 

これまでにこのブログでは、不登校に対する本ブログのスタンス、政府の不登校に対する取組み、教育とは何か、日本の近代学校教育の歴史などについて書いてきました。

 

これらを踏まえて、上述したような学校教育の問題を指摘していきます。

 

今回から何回かの記事は、問題の在り処の指摘にとどまるので、それぞれの問題の深掘りはまたの機会に譲るものが多くなってしまってしいますが、ご容赦ください。

 

教育過剰の風潮

まず、世の中の子供たちがみんな学校に通い、学校が教育の中心になったことが背景にあるのだと思いますが、現代の世の中の風潮として、学習すべき内容や身につけるべき内容をすぐに「教育すべきこと」とみなしがちなのではないかという点が挙げられます。

 

これは学校や、上位校に入るための進学塾への(私には過剰とも思える)期待の高さからも伺えます。

 

学制が始まった頃には、学校に行っても何にもならないといって、親が子供を学校に行かせなかったこととは正反対です。私の親(団塊世代)も両親からそう言われて家の手伝いをしていたという話を聞いたことがあるので、所によっては50〜60年くらい前まではそんな雰囲気だったのではないかなと思います。

 

やや時代を下るとすっかり様子は変わりますね。分かりやすそうなところで例を出すと、GTOというドラマがありますよね(アマゾンで観れます)。

 

最近少し観直してみたのですが、そこで感じたのは、誇張はありながらも、学校や進学塾に任せて、家庭での教育には無責任な親(その後に流行った言い方だとモンスターペアレント)の問題はある種の社会問題として意識されていたんだないうことです。少なくとも、「あぁ、こんな奴いるよね」みたいな共通イメージがネタになるくらいには。

 

さらに、学校教育への期待は家庭からのものにとどまりません。どうにかして自分たちの業界に利する内容を学習指導要綱に盛り込んでもらおうとする各種業界団体からの文科省への陳情・要望にも、学校という現代社会においては“特権的・独占的”とも言える教育組織に対する期待が読み取れます。(これについてはいつか書きたいと思います。)

 

学校が適齢期の子どもたちをすべて集めて、教育を施すという特権的・独占的役割を担ってしまったことで、「じゃあ教育のことは学校が全部やってくれよ。必要なことは全部教えといてくれよ。」という意識の助長につながっていってしまったのではないでしょうか。


前置きが長くなりましたが、何でもかんでも教えるのではなく、本当は教わらない方がいいものも多いと思います。

 

念のためですが、「教わらない方がいいもの」とは「子供が知ってしまうと都合が悪いこと」などのことを言っているのではありません。

 

勉学の話に限りませんが、私がここで言いたいのは、教わらずに自分でやった方が力がつくことも多いということです。

 

学習に要する時間を度外視してよければ、自分ではできないところだけを、教わることが最も力がつくと思います。

 

あくまでメインは学習であって、「できないところだけ」を教えるというかたちで、教育は最低限でいいのです。

 

学習のきっかけ・導入段階や自分で学ぶことの限界に、教育が提供されるべきです。


基本的には、教育は、「身につけるべき事柄であって、それが自分では身につけられない場合、少なくともそれが難しい場合、1人でやるには時間がかかりすぎる(将来の備えるべき場面に準備が間に合わない)場合」に、手助けとして行われるべきものです。

 

ですが、学びを促す好奇心という起爆剤に火をつけるきっかけづくりも、学びの限界地点での教育の提供も、稀にしか行われていないのではないでしょうか。

 

学ぶべき内容はあらかじめ指導要領やそれにもとづいた教科書で決められていて、それが学ぶ必要があることについて子どもたちは腹落ちしないまま、あるいは教える側ですらなぜ必要なのか深く考えもしないまま、今日も学校では淡々と授業が進められているのではないでしょうか(と思ったら今は夏休みでしたね笑)

 

試行錯誤と時間短縮のバランス調整

さて、以前も少し書きましたが、教育は、学習のスピードをあげてやる効果があります。

hakonsoto.hatenablog.com

 

試行錯誤する過程をすっ飛ばして、最小の努力で“正しい”とされる知識を身につけさせてやることができます。

※なぜ引用符がついた“正しい”という表記なのかは、教育の2つの役割を考察した以下の記事をご覧ください。

hakonsoto.hatenablog.com

 

 

教育は学習の効率を上げると言ってもいいでしょう。本来、これが教育の利点の1つのであり、活用すべき教育の機能の1つです。

 

ただ、この機能の代償として、試行錯誤をする経験が奪われます。

 

どういうことか説明してみますね。

 

まず、試行錯誤をするということは、新しいことに挑み、切り抜けていく際にいつでも必要になるものです。

 

そして、教育とは、教わる側にとってはいつでも、新しいことを身につけたり、探求したりする機会です。

※これは軽んじられがちだと思うのですが、教育はそうでなければ教育として成立しません。そうでない教育は失敗です。どういうことか疑問に思われた方は、以下の記事をご参照ください。

hakonsoto.hatenablog.com

 

要するに、

  • 試行錯誤は、新しいことに挑む時に必要となる
  • 教育とは、教わる側にとってはいつでも新しいことを身につける挑戦である

したがって、教育とはいつでも、新しいことを身につける際の試行錯誤を奪う行為でもあるということになります。

 

教育する側は、このことを肝に銘じる必要があると思います。

 

ただし、試行錯誤にも、有意義な試行錯誤と無駄な試行錯誤がありますし、学習に必要以上の時間をかけてはなりません。

 

試行錯誤をしながらも、正しい方向に進んだり、誤った方向がわかるようになることには意味があります。間違っていることがわかるということも前進になります。

学問でも大事なのはそういうことです。エジソンが言うように、失敗は上手くいかない方法の発見なのです。

 

教育による学習時間のコントロール

しかし、堂々巡りに陥ったり、どうしても先に進まないまま時間がかかってばかりいるのは、もったいないことです。

 

教育の機能の1つが学習の時間短縮である以上、教育においては、時間が極めて重要な意味を持ちます。

 

教育は、学習の効率化を通じて子供たちの将来の準備にかかる所要時間をコントロールすることだと言えると思います。

 

どういうことかというと、試行錯誤(自ら考え探求する過程)の経験により得られる利得と、所要時間のバランスを上手くとることが求められるということです。

 

このため、教育は、試行錯誤の意義・効用と、教育を受ける側がそれに費やして良い時間とを勘案しながら、教える内容やタイミングをコントロールしなければなりません。これは、とても難しいことです。

 

ただでさえ難しいのに、40人近くの大勢の生徒児童を1つの教室に集めて、1人の先生が全員に教えるなんてスタイルの“教育”では実質的にそんな芸当は不可能でしょう。

 

個々の生徒児童の学習過程をつぶさに見ながら、それが良い試行錯誤なのか、残された課題とそれに費やしてよい時間の関係から、どの課題にどれくらいの時間をその子がかけられるのかを予測して、実際の進捗を確認しながら、予測を修正して、教育を施して行かなくてはいけないのですから。

 

理想を高く掲げ過ぎだというご指摘はもっともですが、あるべき姿を考えることはとても重要です。そうでなければどこを目指していいかわかりません。

 

教育は学習時間をコントロールすべきものであるにもかかわらず、学校教育は、時間にコントロールされて、決められた時間枠で決められた内容を教えているのが実情でしょう。

 

それは本当に必要な教育ですか?

 

代表的にはカリキュラムの問題がありますが、これは近く別の機会に詳述することにしましょう。