元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

2. 不登校で何が悪いかー不登校の非問題化に寄せてー

こんにちは。箱の外の中の人です。

2度目の更新です。

 

今日は「不登校で何が悪いか」ということで、不登校の非問題化に寄せて、

についてお話ししたいと思います。

管理人の名前の意味もわかると思います笑 

 

このブログのタイトルの意味

このブログのタイトルには、最初の記事に記した【伝えたいこと】【ブログの目的】そして基本的な考え方を込めています。

 

hakonsoto.hatenablog.com

 

ブログタイトル「箱の外で考えて」とは、英語の熟語“think out of the box”あるいは同じ意味の“think outside the box”直訳です。これは、「常識や固定観念に囚われずに考える」という意味で、より詳しく言えば、「既存の枠組みに縛られず、想像力を駆使して、新しい解決策や方法などを考えること」です。

 

ただし、このブログタイトルでは、box(箱)に学校というイメージを重ねています。

 

なので、このブログタイトルは、「学校に行かないとダメ」あるいは「この学校に行けなければダメ」といった固定観念、そして学校という箱の中で身につけるような考え方に囚われずに、別の見方をしてみませんか、という提案を込めたものです。

 

学校教育という制度(システム・仕組み)はあまりに普及し、あまりに当たり前であるがために、その外に出ることがなかなかかないません。

 

しかも、その外に出てしまうと、今度は世間から変な目で見られたり、問題視されがちです。

 

つまり、アウトサイダー(Outsiders)やストレンジャー(Strangers)とみなされてしまいます。

 

不登校にならないこと、つまり普通に学校に通うことについても全く反対しません。また、いったんboxの外に出た後、つま不登校になった後に、やっぱり学校に行こうという考えに至ることにもまったく反対しません。

 

現に、私も高校から学校には通って、大学院まで出たわけですし笑

 

なので、有名な社会評論家のイヴァン・イリッチのように、「学校なんてなくなった方がいい!!」みたいな過激な異議申し立てはしません笑

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

 

 

後々書いていこうと思いますが、学校というのは社会の中で他の組織や制度では果たすことのできない役割・機能を持っています。

 

言い換えれば、学校というのは社会全体を見たときには、なくてはならないもの、必要不可欠なものだとさえ思っています(現在の社会のあり方を前提として、学校の持つ役割を果たす仕組みが他に登場してこない限りにおいては)。

 

しかしその一方で、人はそれぞれ、その人に適した教育や学習の仕方があり、成長の仕方、人生の歩み方は多様であって良いと思っています。

 

だから、このブログにおいては何か具体的に「こういう教育こそがいい!」ということはほとんど主張しません(ただし、教育ってそもそもこういうものだよねという話はします)。

 

読者の方には物足りなく思われるかもしれませんが、どういう教育がよいのかは、ひとりひとり(教える側と教わる側双方)が「これは合う」「これは合わない」と試行錯誤して、探すべきことがらだと思います。

 

他方で、このブログにおいて、何かに異議を申し立てることがあるとすれば、それは「学校に行かない」という選択肢があらかじめほとんど排除されていることに対してです。

 

箱(box)の外にある選択肢、あるいは箱の外に出るという選択肢を、検討に値するものとして考えてもらいたいのです。

 

また、世の中がそれを許容する雰囲気を持ってほしいのです。

 

そして一旦箱の外に出た場合には、それまで持っていた固定観念だとか物事の見方を相対化、つまり、学校に行くことが絶対じゃないんだということに気がついてほしいと思います。

 

そして、学校の問題だとか学校教育を受けるリスクについても気がつくようになってくれたらと思っています。

 

「学校に行く/行かない」という選択肢を認識することは、自分で選択する機会を獲得することにつながります。そして、その決定の結果に対するリスク(不利益を被る可能性)を受け止めることにもなります。

 

学校教育の現状を真っ向から否定するのではなく、今の学校教育の背景や、目的・役割や「良いところ」を理解した上で、他のやり方もありうるんじゃないのかと、改めて問い直してみる。そのうえで、今までのやり方とは違ったやり方が良いと思えるのであれば、現状へのこだわりは必ずしも必要ではない。そう考えています。

 

不登校はそもそも問題なのか

不登校の解決」という言葉をよく目にします。

 

これは多くの場合、不登校とは解決されるべき「問題」だ、ということが前提にされています。そして、その解決とは学校にまた通うことです。

 

しかし、改めてよく考えてみると、本来、問題は不登校それ自体ではなくて、不登校の原因(いじめなど)や、不登校から派生する何らかの好ましくない状況・状態(勉強の遅れなど)と考えられます。

 

私は、不登校というのは、不登校の当人にとっては、問題解決の1つの手段となり得ると考えています。

 

不登校を解決する」というとき、不登校の原因を取り除いてやるという発想はカウンセリングで多く見られるもののようです。それももちろん結構なことです。苦しみなどの原因が無くなるのは喜ばしいことです。

 

しかし、不登校の結果として生じる問題、つまり不登校のデメリットをなくしたり、軽減してやることができるなら、不登校も1つの解決として承認されるべきではないでしょうか。

 

そのようにできるなら、不登校を問題視するということは、果たして正当化できるでしょうか。

 

例えば、いじめなどの理由で、本人が学校に行きたくても、その意に反して不登校にならざるをえないような理由の不登校が増えているなら、それは解決してあげるべき問題でしょう(もっとも、問題となっていたいじめをなくすことだけが解決策とは限られません)。

 

でもそれは、不登校が問題なのではなくて、いじめなどの不登校の原因が問題なのです。不登校それ自体が問題だというのは的が外れているように思います。

 

また、勉学の遅れなど、不登校によって生じる問題についても同じことが言えます。不登校の結果として生じるなんらかの状態が問題なのであって、不登校それ自体が問題なのではないと考えられませんか?

 

また、そもそも学校に行きたくない、学校に行く意味がわからない(私の場合がそうでした)、学校に行くよりもほかにすべきことがあると考えているような場合もそうですが、学校へ行かないこと自体が解決すべき問題なのでしょうか?

 

不登校=解決すべきもの=問題」という語り方の問題

世の中の不登校に関する語り方を見ていると、不登校は解決すべき問題」という固定観念があるように思えます。

 

例えば、以下のようなものがあります。

 

  • 一般社団法人 不登校支援センターの標語

不登校は、悩んでいても解決しません。早く不登校解決するには、早く行動することが大切です。」

www.futoukou119.or.jp

 

  • 森田直樹著『不登校13分の働きかけで99%解決する』リーブル出版

www.amazon.co.jp

 

これらを例に出したのは、不登校に対するイメージの典型だと考えられるからであって、非難する意図はありません。

 

こうした表現ぶりからも、「学校には通って当然。学校に行かないことはいけないことだ。」あるいは控えめに言っても、「望ましくないことだ。」という世間的な考え方や風潮があるように思えます。

 

常識といってもいい考えだと思います。

 

しかし、常識だからといって、それが正しいかは別の話です。

 

また、不登校を問題視はしないけれども、不登校生には特別な才能を持った子供の多いというような特別視がなされることがあります。

 

このブログでは、不登校の正当化のために、異才発掘のような、特別な能力を持っている人だけを特別扱いするようなことはしたくないと考えています。

 

異才発掘が悪いといっているわけではありません。それで救える子どもがいて、社会もそれを求めるのであれば、それはそれでよいでしょう。

 

しかし、異才発掘を不登校に対する免罪符のようにするだけでは、異才を持っていない(と考える)子どもたちやその周りの人々は救われません。

 

不登校は天才の卵』(不登校時の選択肢をいくつも認めているところに共感はします)という本があります。たしかに天才の子もいるでしょう。でもそうじゃない子の方が多いはずなんです。天才という言葉の意味からしても。

 

 

また、2014年に、下村文部科学大臣(当時)も次のように言っていました。

不登校などにより、既存の学校教育の中では適応できない子供であっても、その中に未来のエジソンアインシュタイン、未来のアーティスト、音楽や、あるいは工芸、美術等を含めて、そういうところの子供であるからこそ、逆に世界に大きく貢献できるような人材が埋もれているかもしれないと、そういう感覚を改めて現場で持ちました。このためフリースクール等、多様な選択の中で学んでいけるような柔軟な対応を含め、全ての子供たちに対するバックアップ体制について、柔軟に、そしてシャープに対応していきたいと考えております。」

下村博文文部科学大臣記者会見録(平成26年10月28日):文部科学省

 

「特別な才能」を不登校に対する免罪符とすることが原因で、普通の子たちが「不登校だけど自分は特別じゃない」なんて思いをしてほしくないと思っています。

 

不登校を特別視しないで、誰もが通り得る道、むしろ、誰もが通っても良い道なのだというように考えてほしい。そして、不登校に対する問題視、眼差しが変わればと思っています。

 

不登校の解決」から「不登校という解決」へ 

不登校とは、極めて簡単に言えば、長期間学校を欠席することと言えます(色々と論争はありますが)。

 

それが問題だとすれば、その解決とは、学校に再度通うことにほかなりません。

 

では、質問です。

 

Q1.学校に通えれば問題はないのか?

Q2.学校に通うことが、当人にとって苦痛であっても、それは不登校の解決になるのか?

Q3.解決すべき問題は不登校の原因にあるのではないか?

 

おそらく多くの方は、上の問いには、まず「ノー」、次も「ノー」、そして最後に「イエス」と答えるのではないかと思います。

 

それではもう1つ質問です。

 

Q4.不登校、すなわち学校に行かないことそれ自体は解決すべき問題か?

 

不登校の原因になっている問題を「不登校という問題」とラベル付けして、いつの間にか、不登校自体が問題であると混同していませんか?

 

あるいは、不登校によって生じる学習の遅れなどの問題と同一視して、不登校それ自体が問題であると考えてしまいがちではありませんか?

 

私は、決してそうではないと考えています。

 

例えば、不登校から生じる学習の遅れや人々とのコミュニケーション機会の欠如などの問題をなんらかの方法で解決できれば、不登校はむしろ様々な学校を巡る問題の解決方法の1つになると信じています。