元東大院生、不登校を語る〜箱の外で考えて〜

小学生の頃から筋金入りの不登校だった元東大院生が不登校に関する考え方や体験を綴ります。

3. 元東大院生、不登校になった理由を回顧する

 

どうも。箱の外の中の人です。

 

私はこのブログの記事が不登校関係で悩んでいる誰かの勇気づけになったり、そうでない人たちも不登校について関心を持ったり、ネガティブなイメージを改めるきっかけになればいいなという思いで書いています。

 

思いの丈はこちらから↓ 

hakonsoto.hatenablog.com

 

 目次

 

今回は、どういう人間がこのブログを書いているのか明らかにするためにも、私がここまでどういう経験をし、何をしてきたのかを記していくつもりです。

 

どういう人間がこのブログを書いているのか分かった方が、読者の皆さんの評価や判断に役立つかと思うからです。

 

また、多かれ少なかれ、これから記していく私の考えの基礎にある体験でもあります。

 

後々は、学校というものや教育・学習に関して私がこれまで考えてきたこと、勉強の仕方について述べていこうと思っています。

 

教育機関という意味不明だった場所

不登校の理由というと何が思い浮かぶでしょうか?

 

いじめ?

勉強についていけないこと?

友達や先生とうまくいかないこと?

 

私の場合は、小学校の3年生以降の先生と合わなかった(言葉を選ばずに言えば、先生が腹立たしかった)ことが大きな理由ですが、それだけではありません。

 

保育園児の頃から、保育園に行くのを嫌がる子どもでしたので、特定の学校の先生だけが嫌いだったわけでもありません。一言で言えば、教育機関がとても嫌いな子どもだったのです。

 

小学3年生から不登校になったと書きましたが、小学1~2年生の頃も、学校には嫌々通うような状況で、頻繁に1週間連続で欠席するようなタイプの子どもでした。

 

中学生になると、環境も変わったし、学校行ってみるかと思い、半年くらいはちょくちょく欠席しながらも、一応通ってはいました。

 

でも、やはり不登校状態に立ち戻ってしまいました。

 

なぜか。

 

一言で言えば、みんなと一緒が嫌だった。みんなと一緒に行う形式ばったことが嫌いだったのです。

 

形式ばったことが嫌いだというのはどういうことか、少し伝わりにくいかもしれません。

 

記憶がある限り一番初めに違和感を覚えた体験は保育園の「お昼寝の時間」です。やや誇張になるかもしれませんが、この国の教育(保育)では、お昼寝まで画一化されているのではないかと思います。少なくとも僕の保育園での経験ではそうでした。

 

もう20年以上前の記憶ですが、眠くなくても、決められた時間に、みんな一緒に寝かされる、私はそんなお昼寝の時間が嫌いでした。

 

もっと遊びたかったからという元気いっぱいな理由ではないのです。眠れないのに寝たふりをするのが苦痛だったからです。

 

うまく、すーっと眠れる時はいいのですが、なかなか寝付けない時、寝てないのを見透かされて、保育士さん(当時はまだ保母さんと呼ばれていました)が隣に来て寝かせようとするのがすごく嫌でした。

 

「うわ、来た。」

「寝てないのバレたかな…」

「眠くないから寝られないのにな…」

 

と、幼いながらも眠れないことに罪悪感さえ感じるわけです。眠れなくてごめんなさいって。

 

でも他方で、なんで眠くもないのに寝なきゃいけないのか、意味がわからなかったという記憶もあります。

 

保育士さんとしては善意からしていることはわかっていても、自分にとってはお節介でしかなく、

 

「落ち着かない」

「寝てないのがバレてないか緊張する」

「気が散るからポンポン叩かないでくれ」

「逆に寝れない」

 

幼いながらもこんな感情がありました。でも、自分のためを思ってしてくれていることだからそんなこと言えないなと思うわけです。(ま、結局しまいには、逆に「寝てやるもんか、寝たふりで騙し通してやる」って生意気な考えになってしまいましたが。)

 

話が脱線しますが、今振り返って考えれてみれば、みんな一緒に寝るスペースだって確保するのは大変でしょう。スペースの限られた都会の保育所はこんなシステムはない方が負担も少ないのではないでしょうか。

 

話を元に戻します。

 

例えば、出し物のようにみんなと一緒に何かをする。それが決まり。それが期待されている。決まりに背くのは期待に背くこと。だから、後ろめたさを感じてしまう。お昼寝でさえ一般化すれば、そういうことです。

 

 

小学校時代に不登校になった理由

小学校では、入学式や卒業式のようなイベントで、保育園や幼稚園よりより儀式的な性格が増しますよね。

 

本心とは全くかけ離れた決められたセリフを、みんなで一斉に、大きな声で、元気よく、「大好きだったー、おにーさん!、おねーさん!(後略)」みたいな演技をするのがとても苦痛でした。

 

本当に、何でこんなくだらないことをやらされるのかと、意味がわからなかった。。

 

こういう気持ちを感じていたのは、自分だけではないようでして、例えば、タレントのタモリさんの以下のような経験も同じ類のものだと思います(以下、タモリさんと糸井重里さんとの対談の模様です)。

 

タモリ「幼稚園に行けと言われて、幼稚園ってどういうところだろうかと思ったんで、子どもの足で歩いて、20分ぐらいですかね、そこに行けといわれたんで、半日、見学に行ったんです、外に。」

糸 井「うん。」

タモリ「外からこう、幼稚園を見たんです。そしたら、ギンギンギラギラ夕日が沈む』っていうのをうたっていて……俺はああいうことはできないと。」

糸 井「ありゃ違うと。」

タモリ「あれが、なんであれが楽しいんだ。それで、なんであれをやんなきゃいけないんだと。で、親に、『幼稚園は絶対に行きたくない』〔と言ったら〕『なんでだ?』〔と訊かれたから、こう答えた〕『見た。で、こんなことやってた。俺はああいうこと、絶対にやりたくない』」 

ほぼ日刊イトイ新聞 - タモリ先生の午後。

 

この「なんであれをやんなきゃいけないんだ」というタモリさんの言葉。これに私の不登校の理由は集約されます。

 

私が保育園や小学校で感じていたこと。それは、「ここでなんでこんなくだらないことをやっているのか、意味がわからない」。これでした。

 

我ながら、随分と小さい頃からひねくれていたものだと思います。

 

私にも大人気のない部分があったのは認めましょう。もっと子供ごころを持つべきでした

 

ただ、私だけに原因があるわけでもないと思っています。

 

というのは、小学校の授業がひどいものだったからです。当時の担任はとてもお説教が多い教師でした。

 

それも、私が行ったことに対しての説教ではないのに、「連帯責任」という言葉の元に、1人や数人のクラスメイトがやったことに対して、クラス全員が、数時間にわたって説教されるということが日常茶飯事でした。

 

この教師は3年生からの担任だったのですが、この当時、まともに授業を受けた記憶はありません。学校に何のために行ってるのかがわからないそういう状況でした。

 

1~2年生の時も、授業の内容自体は、父親のおばさんが小学校に入る前から文字の書き方や簡単な計算を教えてくれていたおかけで、何日も学校に行かなくても、すでに知っている内容ばかりだったので、特に問題はありませんでした。そのせいもあり、つまらないなと、なんで知っていることばっかり習わされるんだろうと感じていました。

 

しかし、3年生からはそれすらもなくなり、私にとって学校はただ何時間も座って、怒られに行くところになってしまいました。

 

こうして、だんだん学校に行く頻度が減り、3年生の半ばくらいにはほとんど学校に行かなくなっていたように記憶しています。

 

こうした経緯で不登校になっていったわけですが、一言で言えば「学校なんかに行く意味がわからん」というのが理由です。

 

こうした不登校の原因となった(と今振り返ってみて考えている)感情は今でもあまり変わりません。まあ、大人になったので、態度には出しませんが(たぶんそれなりに隠せてるはず)!笑

 

最近の例では、友人の結婚式の形式ばった、「手紙の朗読」や「目の前の皆様が二人の愛の証人です」的なやりとりなんかにも、やはり抵抗感というか、率直に言えば嫌悪感を覚えました。こういう形式張ったことが嫌いな性分なのです。

 

「まっさらな真実というのはとても信じ難いものだ。だから大抵の人は本能的にほんの少しの嘘を混ぜ込む」

 

という言葉を本当にドストエフスキーが言ったかどうかは確かではありませんが*1、確かにその通りです。でも、真実も何も、中身のない学校の生活にはどうしても嫌悪感や軽蔑の気持ちを抱いて、それが消えませんでした。

 

学校に対する感情は人それぞれですが、こういう子どももいるのだということで、このブログをご覧いただく際のご参考まで。

 

次回は私が不登校だった時の過ごし方について書きます。

 

*1:plain truth is so implausible that most people instinctively mix in a little falsehood. Iris Murdoch, A Fairly Honourable Defeat から引用。この小説ではドストエフスキーが言ったということになってる…